تسجيل الدخول朔のすぐ背後で聞こえた呼吸は、振り返ったときには消えていた。
教室の隅まで懐中電灯を向けても、揺れる光の中に人影はない。七つの机、濡れた黒板、口を開けた教師用の引き出し。そこにあるのは、古い校舎の湿気と、六人分の浅い息だけだった。
それでも、澪の耳には少女の喉が震える音が残っていた。
ひゅう、と細く吸い込む息。
泣くことを堪えたまま、誰かの背中へ顔を寄せていたような近さだった。
朔は何も言わず、引き出しから小型ビデオテープを取り出した。白いラベルには、七刻女学校、八年前、未編集とある。黒い文字は乾いているのに、指で触れれば滲みそうなほど濃かった。
「本当に、お前の字じゃないのか」
悠斗が訊いた。
朔はラベルを光へ傾ける。
「似ている」
「似てるじゃなくて」
「俺が書くなら、年号を入れる。八年前とは書かない」
淡々とした返答だった。
だが、テープを持つ指先は動かなかった。爪の横へ力が入り、手袋の薄い布が僅かに引きつれている。
澪はその手を見つめた。
八年前、朔は撮影機材のすべてへ自分の字で番号を書いていた。細く右上がりで、角のある文字。ラベルの筆跡は、記憶の中にあるそれとよく似ている。
「再生できるの?」
奈々香が扉から離れた場所で言った。
「その形、朔が持ってるカメラのテープと違わない?」
「違う」
朔は肩に下げていた小型カメラではなく、機材鞄を床へ置いた。
防水の留め具を外し、中から古いビデオカメラを取り出す。
角の擦れた黒い機体。側面には剥がれかけた白い番号札が残っている。八年前、朔が七刻女学校へ持ち込んだものだった。
澪は息を止めた。
「まだ持ってたの」
「警察から返却された」
「いつ?」
「事件の半年後」
「どうして今日、持ってきた?」
美月の問いに、朔は一拍置いた。
「同じ場所へ行くなら、当時の機材が必要になるかもしれないと思った」
「何に必要なの」
「比較だ。映像に仕掛けがあれば、機種の癖から分かる」
説明に無理はない。
だが、美月の視線は和らがなかった。
朔はカメラの蓋を開いた。内部の受け口と、手に持つテープを見比べる。
「規格が違う」
透が近づき、低く言った。
「こっちは幅も厚みも合わない」
「入るはずがないってこと?」
澪が訊く。
「普通なら途中で止まる」
朔はテープを差し込み口へ近づけた。
「無理に入れないで」
奈々香の声が上ずる。
「壊れたら、もう見られない」
「見たいのか」
悠斗が振り返る。
奈々香は口を閉じた。
朔の親指がテープの端を押した。
本来なら金属へ当たるはずの位置で、何の抵抗もなかった。
テープは吸い込まれるように内部へ滑り込んだ。
かちり、と蓋が閉まる。
六人のあいだに沈黙が落ちた。
「今、入ったよね」
澪は自分の声が遠く聞こえた。
朔は答えず、電源を入れた。
古い液晶が青く光る。電池残量は満ちていた。再生表示が点滅し、内部でテープを送る機械音が鳴る。
映像が始まった。
雨に濡れた七刻女学校の門。
画面の端に、八年前の日付が表示されている。秒は小刻みに進み、時刻は午後十時五十六分だった。
高校生の黒瀬悠斗が、錆びた門を押し開ける。
『ほら、鎖なんて見せかけだって』
若い声。
まだ大人の作り方を知らない笑い方。
現在の悠斗が、奥歯を噛んだ。
画面の中では、奈々香が赤い髪留めをつけ、懐中電灯を顔の下から当てている。
『本当に出たら、悠斗が一番に話しかけてよ。部長でしょ』
『撮れ高になるならな』
『そういうこと言うから、本当に変なの呼ぶんだよ』
笑い声が重なった。
美月は救急箱を肩へ掛け、門の手前で立ち止まっている。
『床が腐ってたら戻るからね。誰か一人でも怪我したら終わり。いい?』
『美月、保健の先生みたい』
『奈々香が子どもすぎるの』
画面の中の六人は、よく喋り、よく笑っていた。
その中央で、澪も笑っている。
頬は今よりふっくらし、目元には疲労の影がない。怖がりながらも、誰かの肩へ隠れては顔を出し、カメラへ向かって手を振っている。
『朔、私ばっかり撮らないで』
映像の向こうの自分が笑う。
カメラを持つ朔の声がした。
『動くから入るだけだ』
『嘘。絶対わざと』
澪は液晶から目を逸らしかけた。
自分の声なのに、別人のものに聞こえた。八年前には、こんなふうに笑えていた。その事実が、失ったものを突きつけられるように胸へ刺さる。
そして、澄花が画面へ入った。
制服の袖を肘までまくり、右手首に赤い組紐を巻いている。左手には黒い布袋を提げていた。袋の底には丸いものがあり、歩くたび硬い頭部らしき形が布越しに揺れている。
「人形……」
現在の澪が呟く。
画面の中で、奈々香が同じことを訊いていた。
『それ、何が入ってるの?』
『返すもの』
『誰に?』
『ここにいる子に』
澄花は笑った。
黒い布袋の口から、白い指のようなものが一瞬だけ覗く。
映像が乱れた。
横線が走り、雑音が教室へ広がる。透がすぐに録音機を近づけた。
「止めるな」
誰にともなく言う。
映像は校舎の中へ移った。
悠斗が先頭で廊下を歩き、奈々香が何度も背後を振り返る。美月は床の穴を見つけるたび全員を止め、透は長い棒の先へつけたマイクで天井の音を拾っていた。
澄花は時折、カメラの外へ目を向けている。
何かを探しているのではない。
誰かの動きを見張っているような視線だった。
時刻は午後十一時三十二分。
画面の隅で、澪が朔へ近づく。
『さっきから変じゃない?』
『何が』
『音。私たちの足音より一人多い気がする』
『透に聞け』
『朔は聞こえないの?』
カメラがわずかに下がる。
返事は記録されていなかった。
再生時刻が午後十一時三十八分へ変わる。
教室にいた全員のスマートフォンが、同時に小さく振動した。
今夜、最初のメールが届いた時刻。
澪はポケットの上から端末を押さえた。
映像の中でも、澄花が急に立ち止まった。
理科室前の廊下だった。
彼女は布袋を抱え直し、カメラを振り返る。先ほどまでの笑みはない。濡れた前髪の下で、目だけが強く光っていた。
『誰が仕掛けたの?』
現在の教室で、誰かの息が止まった。
澄花はカメラの向こうにいる朔へではなく、そのさらに後ろへ問いかけているようだった。
『これ、怪談じゃない。最初から私たちを怖がらせるために――』
画面が激しく揺れた。
誰かがカメラへぶつかる。
懐中電灯の光が壁と床を走り、白衣の裾、割れた薬品瓶、赤い髪留めが一瞬ずつ映る。
『ちょっと、押さないで!』
奈々香の声。
『澄花、待って!』
美月の声。
澄花が誰かに腕を掴まれた。
顔の見えない人物が、彼女を理科準備室へ押し込む。
澄花の肩が扉の縁へぶつかり、黒い布袋が床へ落ちる。袋の口から、小さな日本人形の顔が覗いた。白い頬。閉じた目。赤黒く濡れた唇。
扉が閉まる。
澄花の手が隙間へ伸びたが、寸前で引っ込んだ。
閉めた人物の顔は映っていない。
画面に入ったのは、手首と袖だけだった。
黒い文字盤。
銀色の縁。
太い革のベルト。
悠斗の右手が、反射的に自分の腕時計を覆った。
現在も着けている時計は、映像のものとよく似ていた。
「止めろ」
悠斗がカメラへ手を伸ばした。
朔が片腕で遮る。
「触るな」
「俺じゃない」
悠斗の呼吸が荒くなる。
「あの時計は当時、部員全員でそろえた安物だ。卒業前にまとめて買っただろ。お前だって持ってた」
「俺のは壊れた」
「透も、美月も持ってた。俺だけじゃない」
「映像を止めれば、余計に疑われる」
美月が冷たく言う。
悠斗は彼女を睨み、手を下ろした。
透は液晶ではなく、カメラの小さなスピーカーへ耳を近づけている。
「切れてる」
「何が」
澪が訊く。
「音」
透は再生位置を僅かに戻した。
澄花が『怖がらせるために』と言った直後。画面は連続して揺れている。表示時刻にも飛びはない。
しかし音だけが、雨音から急に無音へ変わり、次の瞬間には別の位置の反響へ切り替わっていた。
「編集されてる」
「未編集って書いてあるだろ」
悠斗が言う。
「ラベルがそう言ってるだけだ」
透は液晶へ波形を表示した。
「ここから八分十三秒、音が抜かれてる」
澪の指先が痺れた。
二年七組の机で見た、透への質問。
八分十三秒の音声を消したのは誰?
「時間表示は続いてる」
美月が画面を覗く。
「映像も切れてないように見えるけど」
「時計表示を後から重ねれば連続して見せられる。けど、音の反響はごまかせない」
「こんな古いテープでもできるのか」
悠斗が訊く。
朔がテープ室の蓋へ指を置いた。
「通常の編集なら、複製した映像へ加工する。元のテープへ戻すと劣化が出る。これは映像の粒子が連続してる」
「どういう意味?」
奈々香の声が震える。
「元のテープそのものを物理的に加工した可能性が高い。磁性面へ直接手を加えて、音声の記録だけを潰した」
「そんなこと、誰ができるの」
誰も答えなかった。
透がポケットの上へ手を置いた。
折った質問紙が入っている場所だった。
映像の中では、理科準備室の扉を誰かが叩いている。
けれど音はない。
澄花が内側から叫んでいるはずなのに、口の動きも声も記録されていない。扉の下から黒い布袋の端が引き込まれ、廊下の照明が一つずつ消えていく。
最後の灯りが消えた瞬間、映像が途切れた。
青い乱れ。
白い線。
次に映ったのは、現在の二年七組だった。
六人が、古いビデオカメラを囲んでいる。
今、この瞬間の姿。
澪は液晶の中で、自分が朔の左隣に立っているのを見た。美月は救急鞄を抱え、悠斗は腕時計を隠すように袖を引いている。奈々香は割れた端末を胸へ押しつけ、透は録音機をカメラへ向けていた。
誰も撮影していない。
朔は反射的に再生中の機体を裏返した。録画灯は消えている。レンズには保護蓋がついたままで、電源表示も再生側にしか入っていなかった。このカメラが現在の光景を取り込んでいるのではない。
奈々香が自分の小型カメラを確認する。そちらも床へ向いたまま停止している。透の録音機には映像機能がなく、美月も悠斗も撮影機器を持っていない。
「廊下に誰かいる」
悠斗が工具を握り直した。
朔は首を振る。
「この角度なら、扉の中央に立たなければ撮れない」
全員が入口を見た。そこには誰もいない。床に積もった埃にも、新しい足跡はなかった。
しかも、映像の中の教室は現実と僅かに違っていた。教師用の机に置かれた呼び出しベルがなく、代わりに黒い布袋が載っている。澄花が八年前に持っていたものだった。袋の口は閉じているのに、内側から小さな指が布を押し上げ、六人の動きに合わせるように何度も形を変えていた。
映像の視点は教室の入口付近にあった。
そこから、六人の背中へ向かってゆっくり進んでくる。
床を滑るような動き。
足音はない。
ただ、先ほど聞いた少女の呼吸だけが近づいてくる。
ひゅう。
ひゅう。
映像の中の澪が、肩越しに振り返った。
現実の澪も、同じ瞬間に背後を振り返る。
誰もいない。
開いた扉。
暗い廊下。
雨で湿った風が、頬を撫でただけだった。
しかし液晶の中では、制服姿の少女が澪の背後に立っていた。
顔は髪に隠れている。
右手首に赤い組紐。
少女はゆっくり腕を上げ、廊下の奥を指差した。
同時に、天井のスピーカーから雑音が流れた。
電源のない校内へ、少女の声が響く。
『次は、放送室です』
液晶の中の少女だけが、指を唇へ当てた。
その爪の間から、赤黒い水が一滴落ちた。
管理通路は、人間が歩くために作られたというより、建物の臓腑へ無理に押し込まれた裂け目のようだった。 肩幅ほどしかないコンクリートの壁。頭上には錆びた水道管と、後から増設された新しい電線が何本も絡み合っている。古い鉄から落ちる赤錆と、樹脂被膜のまだ新しい匂いが混ざり、湿った空気が喉へまとわりついた。 五人は一列になって進んだ。 先頭は朔。その後ろに澪、美月、奈々香、最後を悠斗が歩く。 誰も背後を空けたくなかった。 だからといって、この狭さでは振り返ることも難しい。 壁に固定された赤い表示灯が、一つ先へ進むたび順番に点灯していく。 かち。 かち。 まるで五人の位置を誰かが確認しながら、道を開いているようだった。「止まって」 朔が片手を上げた。 澪は背中へぶつかりかけ、足を止める。 右側の壁に、細い横穴が開いていた。 高さは目の位置ほど。横幅十センチほどしかない。換気口にしては不自然で、縁だけ埃が薄い。 朔が懐中電灯を消し、穴へ目を近づけた。「何が見える?」 澪が囁く。「放送室」 朔が横へずれた。 澪も覗く。 壁の向こうに、透が死んだ放送室が見えた。 壊された扉。 床の血痕。 切断された黒い磁気テープ。 オープンリール式録音機。 見える角度は、透が倒れていた位置を真正面から捉えている。 もし誰かがここに立っていたなら。 透が首へ絡んだテープを外そうともがく姿を、最後まで見ていられた。 澪は目を離した。 首筋が冷える。「これ、覗き穴……?」 奈々香の声が細い。「そう見える」 美月が答えた。 数メートル進むと、また穴があった。 今度は音楽室。 グランドピアノを横から見下ろす位置。 ソレノイドの仕掛けを調べていた五人の姿も、ここからなら死角なく見えていたはずだ。 次は女子トイレ。 四番目の個室を隠す壁の裏側。 さらに舞踊室。 一方通行の鏡の向こう。 奈々香が足を止めた。「ずっと……見てたってこと?」 誰も返事をしなかった。 鏡の中で自分だけが遅れたとき。 耳から血が流れたとき。 四番目の個室へ閉じ込められたとき。 誰かが壁の向こうから、その恐怖を見ていた。 それも、怪異が起きた結果を偶然確認したのではない。 最初から見るために穴を開けている。 澪は背後の奈々香が呼吸を乱す
『殺されたからです』 死んだ相馬透の声が、三階女子トイレの天井から降ってきた。 奈々香が息を呑む。 美月は反射的に廊下の方角を見た。悠斗は何かを言おうとして口を開いたが、言葉にならない。 澪だけは、その場から動けなかった。 声があまりにも透だった。 低く、少し掠れている。語尾を必要以上に伸ばさず、問いへ短く答える話し方。八年前から変わらない。 けれど透は死んでいる。 二年七組へ安置したまま。 澪自身、その身体を担架に乗せた。『俺は聞いてしまった』 校内放送が続く。 五人の呼吸が止まった。『八年前に消された音を』 ざらり、と雑音が混じる。 古いスピーカーの膜が震えている。『犯人は、ずっと一緒にいた』「止めろよ」 悠斗が天井を睨んだ。「誰だ。何がしたい!」 返事はない。 代わりに、七刻女学校の始業ベルが一音だけ鳴った。 かあん。 余韻が消える。「放送室」 朔が言った。「発信元を確認する」「透のところへ戻るの?」 奈々香の声が震えた。「嫌ならここで待つか?」「一人では絶対に残らない」「なら五人で行く」 朔は骨伝導装置を入れた証拠袋を機材鞄へしまった。 動きには淀みがない。 澪はその横顔を見た。 頼りたい。 だが、奈々香の髪から落ちた装置を触る朔の指を見てから、胸の奥にある小さな疑いが消えなかった。 音響。 映像。 遠隔操作。 録音。 偽の映像。 朔の知識が役に立つたび、その知識でこれらを作ることもできるのだと気づいてしまう。 五人は管理通路を戻った。 細いコンクリートの壁に貼られた自分たちの写真が、懐中電灯の光を受けて一枚ずつ浮かぶ。 美月の病院。 奈々香の配信場所。 悠斗の会社。 澪の取材先。 そして、室内から撮影された朔。 奈々香は朔の写真の前を通るとき、顔を上げなかった。 朔も何も言わない。 校内放送では、透の声が途切れ途切れに続いていた。『ずっと……』 雑音。『近くに……』 また雑音。『見ていた』「細切れに聞かせるな」 悠斗が吐き捨てる。「意味を持たせたいだけだ」「そうかもしれない」 朔が答えた。「そうじゃなければ?」 美月の問いに、朔は歩みを止めなかった。「確認するしかない」 二年七組の前へ着く。 まず、朔が設置した小型カメラを
黒い水は、奈々香の膝を越えていた。「早く! もう腰まで来る!」 四番目の個室の内側から、奈々香が扉を叩く。 狭い木板が衝撃を受け、鈍い音を繰り返した。 ばたん。 ばたん。 その合間にも、水の流れる音が大きくなる。 ごぼ、ごぼ、と水洗タンクの奥で空気が泡立ち、黒い液体が床へ溢れている。 澪は扉へ両手をついた。「奈々香、もう少しだけ待って!」「無理! 冷たい! 足が動かない!」 奈々香の声は泣き崩れていた。 先ほどまでは足首ほどだったはずの水位が、数十秒で腰近くまで上がっている。 澪は床を見た。 個室の外は乾いている。 扉の下には数センチの隙間があるのに、黒い水は一滴も漏れてこない。「おかしい」 美月も同じ場所を見ていた。「これだけ溜まれば、下から流れ出るはず」 古い女子トイレには排水口がある。 しかも、増設された四番目の個室の床にも、小さな排水穴が見えていた。 完全に塞がれていたとしても、腰まで水を溜めるには相当な量が必要になる。 この狭い空間に、その水がどこから供給されているのか。「朔!」 悠斗が叫ぶ。「錠はまだか!」「外から外す」 朔は電磁錠を諦め、個室の側壁へ懐中電灯を当てていた。 増設された木板の継ぎ目。 外側から古く見せるため、表面には汚し塗装が施されている。 しかし、板そのものは新しい。 朔は工具の先端を継ぎ目へ差し込んだ。「悠斗、ここを押さえろ」 二人で板をこじる。 最初はびくともしない。 悠斗が肩を押しつけ、朔が工具をさらに深く差し込む。 みし。 木材が裂ける。 内側で奈々香が悲鳴を上げた。「何か、いる!」 澪の背中が凍る。「何が?」「鏡に……後ろに……澄花が!」「鏡を見ないで!」 美月が叫ぶ。「正面の扉だけ見て! 私たちの声を聞いて!」「無理! 耳元で喋ってる!」「何て?」 奈々香の返事は、水を蹴る音に掻き消された。 ばしゃん。 ばしゃん。「腰まで来た! お願い、開けて!」 八年前。 理科準備室の扉を叩く声が、澪の耳の奥で重なった。『澪ちゃん、開けて!』 掌の古傷が疼く。 あのときは逃げた。 煙。 火災警報。 男の声。『もう助からない』 そして、自分は扉を離れた。「今度は絶対に置いていかない」 澪は呟いた。「何?」 美
三階女子トイレには、三つしか個室がなかった。 八年前も同じだった。 澪は入口に立ったまま、右から順番に扉を数えた。 一つ。 二つ。 三つ。 薄い水色の扉はどれも塗装が剥げ、下端には湿気で膨らんだ木が黒く浮いている。床の白いタイルはところどころ割れ、洗面台の蛇口には赤錆が厚くこびりついていた。 五つ目の印が示した場所。 三階女子トイレ、四番目の個室。 だが、どれほど見ても四つ目はない。「間違ってるんじゃないの」 奈々香が入口から動かずに言った。 声には期待が混じっていた。「四番目なんてない。これなら、行き先そのものが嘘だったってことでしょ」 誰もすぐには答えなかった。 奥の小窓から雨の青白い光が差し込んでいる。天井灯は死んでおり、五人の懐中電灯だけが便器の白や配管の錆を拾っていた。 美月が三つの個室を一つずつ開く。 一番目。 空。 二番目。 便座が外され、床へ転がっている。 三番目。 天井から蜘蛛の巣が垂れているだけ。「壁の奥に設備室がある可能性は?」 美月が尋ねる。 悠斗が通路図を広げた。「女子トイレの裏は配管スペース。さっきの管理通路とつながってる。ただ、ここから直接入れる入口は載ってない」「載っていない入口ばかりだな」 朔が壁を照らす。 そのとき、澪は入口脇の鏡を見た。 長い洗面台の上に設置された横長の鏡。 表面は黒い斑点に侵され、中央には縦へ亀裂が走っている。 鏡の中に、四つの扉が映っていた。 澪は呼吸を止めた。「……ある」「何が?」 美月が振り返る。「鏡」 澪は指を向ける。「四つある」 全員が鏡を見た。 現実の背後には三つ。 鏡の中には四つ。 三番目の右隣。 本来なら灰色の壁しかない場所に、もう一枚、薄い水色の扉が立っている。 表面には黒い数字で〈4〉。 奈々香の顔色が変わった。「いや」 短い声だった。 壁へ背をつける。「奈々香?」「そこ……」 鏡の四番目の扉を見たまま、奈々香の唇が震える。「八年前も、あった」 悠斗が彼女を見る。「四つ目が?」「見えたわけじゃない。でも、澄花が言ってた」 奈々香は左耳に残ったガーゼへ触れた。「四つ目があるって。私、馬鹿にした。三つしかないじゃんって」 記憶が戻ったのか、声が次第に細くなる。「それから……
「……上げて」 掠れた声は、階段下の暗闇から聞こえた。 男とも女とも判別できない。喉を潰した人間が、長いあいだ声を出さずにいたあと、無理に息を押し出したような音だった。 五人は動かなかった。 朔が十二段目へ膝をつき、懐中電灯を空洞へ向ける。 白い光が、壁面をゆっくり滑った。 深さは五メートルほど。 底には使われなくなった机や椅子が乱雑に積まれていた。錆びた金属脚が絡み合い、崩れた木製の天板が斜めに立っている。古い配管が壁に沿って下り、底には雨水らしい黒い水が薄く溜まっていた。 人影はない。「誰かいるのか!」 悠斗が叫んだ。 返事はなかった。 先ほどまで聞こえていた爪の音さえ消えている。「空耳……?」 奈々香が美月の腕を掴んだ。「五人とも聞いた」 美月は空洞から目を離さない。「少なくとも、私には聞こえた」 澪も頷きかけた。 そのとき。 朽ちた椅子の隙間で、白いものが動いた。 細い指。 血の気のない小さな手が、折れた机の陰から一瞬だけ伸びたように見えた。「待って」 澪が一歩前へ出る。「今、手が」「何?」「下に誰かいる」 朔が光を戻す。 椅子の隙間。 何もない。「澪、離れて」 美月が肩へ触れた。「人がいるなら救助が必要。でも、まず安全を確認する。五メートルはある。下の床が抜けている可能性も――」「私が下りる」「駄目」「誰かがいるかもしれない」「だからこそ一人では下りない」 美月は強く言った。「さっき悠斗が落ちかけたばかりでしょう」 澪は空洞を見下ろした。 声。 白い手。 そして、耳の奥に蘇る八年前の澄花。『澪ちゃん。開けて』 助けを求める声を聞いた。 それなのに逃げた。 今度も同じことをしたら。「途中まででいい」 澪は朔を見る。「ロープをつけて。何かあったらすぐ引き上げて」「俺が行く」「朔じゃ駄目」「理由は」「私が見たから」 澪の声が僅かに震えた。「白い手を見たのは私。もしまた、私にしか見えてないものなら……私が確かめる」 朔は数秒黙った。 反対したのは美月だった。「危険すぎる」「でも、人がいるなら」「救助する側まで落ちたら意味がない」「分かってる」 澪は自分の腰へ手を当てた。「だからロープを使う」 朔は空洞と澪を交互に見た。 やがて、悠斗
少女が「十三」と数えた直後、東棟の照明がすべて消えた。 暗闇は一瞬だった。 それでも澪には、その短いあいだに誰かが階段を一段上ったように聞こえた。 こつ。 硬い上履きの底が、木の踏み板へ触れる音。 続いて蛍光灯が白く明滅した。 十二段しかないはずの階段の最上部に、もう一段増えていた。「……何、あれ」 奈々香が美月の袖を握る。 誰も答えなかった。 澪は階段を見上げた。 一階から踊り場まで、十二段。 八年前にも上った。今夜も何度も通った。幅の狭い古い階段で、七段目だけ踏むと軋む。十一段目には大きな欠けがあり、十二段目を越えれば踊り場へ出る。 その十二段目の上に、見覚えのない黒い踏み板があった。 十三段目。 しかも、その先に廊下が続いている。 三階へ上がる階段ではない。 踊り場の壁がなくなり、さらに上の階へ向かう長い廊下が伸びていた。 薄暗い窓。 左右へ並ぶ教室の扉。 天井から垂れる蛍光灯。 突き当たりの壁だけが、霧の中へ溶けるように見えない。「四階……?」 美月が呟く。「ない」 悠斗が即座に否定した。 声がひどく乾いている。「この校舎は三階建てだ」「図面にも?」 澪が訊く。「ない。屋上の設備室ならあるが、人が歩ける階じゃない」 朔は階段へ近づかず、小型カメラを構えた。「全員、その場から動くな」 液晶に十三段目と四階らしき廊下が映っている。 今度は、カメラにも存在していた。 朔は角度を変えた。 正面から。 壁際から。 床近くから。 どの角度でも、十三段目はある。 突然、照明が消えた。「動かないで!」 美月の声。 数秒後、明かりが戻る。 十三段目は消えていた。 その先の四階もない。 十二段目の先には、いつもの踊り場の壁がある。 奈々香が息を呑む。「今、なかった」「ああ」 朔はカメラを確認する。「映像からも消えてる」 また照明が瞬いた。 一度暗くなる。 白い光が戻る。 十三段目。 四階。 存在する。 照明の明滅に合わせ、建物そのものが形を変えているようだった。 澪のスマートフォンが震えた。 続いて四人の端末も同時に鳴る。 七つの学校章。 赤く塗られているのは三つ。 七人目の出席。 校歌。 姿見。 その下へ新しい文章が表示された。 十三段目に